天下の名城 熊本城編

2009.10.12.作成


  熊本市内の名所としていの一番に名前が挙がる熊本城。 私が若い頃阿蘇を拠点に観光写真の仕事をしていた
 ことはすでに何度も書きましたが、一時期、熊本城を拠点にしていたこともあり(団体さんの撮影が無いときなど、隣
 の藤崎台球場へ高校野球を見に行ったりして、現ソフトバンク監督の秋山幸二投手(当時はピッチャーでした)を擁
 する八代高校がNHK旗大会で優勝したのを覚えています。)、熊本城は私にとって 阿蘇と同じく馴染み深い、思い
 出深い場所となっています。
 
  今でも熊本の人に清正公さん(せいしょこさん)と慕われている名将、加藤清正が1600年頃から築城を開始し(築
 城開始年については諸説あり)、1607年に一応の完成を見てから400年となる一昨年から昨年の間に、熊本城で
 は築城400年祭が企画され、その目玉として本丸御殿の復元が行われました。
  ここではその本丸御殿を中心に日本三名城のひとつである熊本城の威容を紹介したいと思います。
 
 
二の丸の駐車場横の二の丸公園から見た
大小の天守閣。
奥の大小天守に加えて手前の宇土櫓までフレ
ームに入れることが出来る絶好のポイント。
 
桜の季節には、ライトアップされた天守をバック
に花見が出来る。
   二の丸駐車場から西大手門を抜けるとこの
   頬当御門にでる。ここは熊本城への入場口
   (券売所)で、熊本城にはこのほかにも櫨方
   門、須戸口門、不開門の計4箇所の入場口
   がある。
頬当御門の左手に行くと加藤神社があるが、そ
の前から見た宇土櫓。
 
平左衛門丸(清正の重臣加藤平左衛門の屋敷が
あったのでこの名がある) にあることから平左衛
門丸五階櫓とも呼ばれるらしいが、宇土櫓のほう
が通りがいいだろう。その美しい姿はまさに第三
の天守と呼ばれるにふさわしい。
この櫓は江戸時代から現存する建物のひとつで、
重要文化財に指定されている。
 
櫓がのる石垣は古図面によると傾斜した法面の
長さが32mを超え、城内一の高石垣だそうで、な
るほど見る者を圧倒させる。
 
この場所も大小の天守と宇土櫓をきれいに撮る
ことが出来るポイントだったが、城内の樹木で小
天守が隠れてしまうようになり、少々残念だった。
  頬当御門を抜けて平左衛門丸と数奇屋丸の
  間の通路から見た天守閣。天守閣の手前が
  平左衛門丸で、ここに宇土櫓が建っている。
さらに進むと現れる闇り御門(くらがりごもん)。
上の建物は今回復元された本丸御殿で、ここか
ら本丸御殿地下通路へ入ることになる。
 本丸御殿地下通路。上は本丸御殿の大広間と
 大台所。 本丸御殿が再建されるまでは天守へ
 向かうただの通路だった。
地下通路の途中にある本丸御殿への入り口と
なる階段。
  闇り御門前から見た天守閣。 向こうに見えるスロープは地下通路を通らず
  に天守台に登る通路。
地下通路もうひとつの入り口。
須戸口門、不開門から入場した場合、この一乃
開御門から地下通路に入る。
本丸から見た大小天守。熊本城は西南戦争時、
原因不明の出火により、天守や本丸御殿のほか
大部分の建物を焼失した。
この天守閣は昭和35年に再建されたもので、鉄
骨、鉄筋コンクリート製の外観復元(焼失前の古
写真などを元にして)となっており、内部は加藤、
細川時代や西南戦争の資料を展示している博物
館になっている。
大天守内部に展示してあった鯱。
  同じく展示物のひとつ、御上段内部復元模型。
  大天守の最上階の復元模型だ。
大天守と小天守の分岐点。
小天守は資料展示は無く、最上階の展望室が
特別公開されていた。
 特別公開の文字が見える。これは今年の1月に
 行ったときのもので、 現在は公開されていない
 模様だ。
小天守最上階の展望室から見た加藤神社裏の
高石垣。大天守からだと小天守の陰になり見え
ないところ。
この石垣上にあった櫨方三階櫓も復元予定建物
の中に入っている。
普段は見れない小天守から見た大天守。
上とは逆に大天守から見た小天守。
特別公開中のため、最上階に人がいるのお分か
りだろうか。
再建された本丸御殿を大天守から見る。
この唐破風の下が地下通路への入り口、闇り御
門になる。
現在の本丸御殿への入り口は中央の白いテント
からL字型の黒っぽい屋根のところが玄関になっ
ており、靴を脱いで建物の中に入るとそこは大台
所になっている。
大台所内にある囲炉裏。
大台所には煙を抜くために天井が無く、屋根裏が
むき出しになっている。
それにしてもすごい木組みだ。
台所から振り返るようにして広間のほうへ進むと
こんな感じで大広間が現れる。
 写真左手、ケータイで写真撮ってる人の位置で
 撮った写真が上の写真。その右手にはこんなお
 勉強コーナーもあった。
大広間脇の広縁。今回の復元は本丸御殿の大
広間、大台所のみで、本丸御殿にはまだいくつ
かの建物があったらしい。
復元図を見ると写真に見える石垣の上の芝生の
ところにも 小広間西三階櫓と呼ばれる建物があ
り、これも復元予定に入っている。
完全復元されればこの広縁の前の庭は建物に
囲まれた中庭となる。
 大広間の最奥部、若松之間の床の間。
 この若松之間は、次に紹介する昭君之間に次ぐ
 高い格式の部屋で、床の間の絵もきらびやかな
 松と滝が描かれている。
 
 本丸御殿の襖絵などの装飾については資料が
 少なく、昔の言い伝えとか同時代の他の城や寺
 社などの装飾を参考に 推定復元されたという。
若松之間から昭君之間を見る。
ここは主に藩主の居室や対面所として使われて
いた大広間の中にあって、最も格式の高かった
一角だ。
 昭君之間の床と違棚。
  現在に残る記録や言い伝えから、部屋の名前
  の由来となった「王昭君」の絵が描かれていた
  ことは間違いないため、復元に当たって床の
  間には王昭君を題材にした絵の中でも 格式
  の高い図柄が選ばれたそうだ。
 
   王昭君についてはこちらをご覧ください。
昭君之間の東面。
この昭君之間には鉤上段が設けられており、ここ
に殿様が座り、下段に続く若松之間に控える家臣
などと対面したのか…
 
昭君之間にまつわるエピソードにはこれは将軍の
間の隠語で、清正が豊臣家万一の場合、熊本城
に秀頼を迎え入れるために作った部屋だという言
い伝えもあるそうな…
 
この写真は帳台構で、「馬上で琵琶を弾きながら
匈奴へ赴く王昭君一行」の絵が描かれている。
 
※帳台構について面白く解説してあるサイトを見
つけました。こちらをご覧ください。
 
ちなみに昭君之間の帳台構の向こうには帳台之
間がありますが、寝室として使われたのか、武者
隠しだったのか…
昭君之間の天井。
 この天井は折上格天井と呼ばれ、「御城内照君
 之御間合天井図」 という資料に基づいて復元さ
 れている。
 
 なお、本丸御殿大広間内は金箔の劣化防止の
 ためフラッシュ撮影が禁止されている上に、照明
 も暗く、写真の色合いが良くないが、実際はもっ
 ときらびやかで息を呑む美しさだった。
平成17年に復元された飯田丸五階櫓。
飯田丸というのは清正の重臣の一人、飯田覚兵
衛の屋敷があったところで、熊本城にはこのよう
な五階櫓が宇土櫓も含め5基もあった。
 飯田丸五階櫓の内部。中に入って見学すること
 が出来る。木造で忠実に復元されている。
二様の石垣。
古い石垣とあとから増築された2種類の石垣が並
んでいるためこう呼ばれるようになった。
右側の古い石垣に比べ、左の石垣は勾配も急で
(いわゆる武者返し)角石も算木積みになるなど、
新しい技術が取り入れられている。
 
前で佇むのは例によってうちの子供たち。
 最後に本丸御殿復元前の写真を2点ほど…。
 これは復元前の地下通路。 この両脇の石垣に
 載る形で本丸御殿が建てられていた。写真正面
 突き当りのL字に曲がったところが 闇り御門 の
 位置になる。
 この当時ここに建物があったとは思いもよらず、
 江戸時代は地下通路だったなどとは夢にも思わ
 なかった。
 
 右側の石垣の上に立つ建物は売店で、さらに右
 側に天守閣がある。
 左手の石垣上には西南戦争時、鎮台司令長官
 として篭城軍を指揮した 谷干城の銅像があり、
 ここも記念写真の撮影ポイントだった。(木に紛
 れて見にくいが梅の花の間に銅像が見える。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これがその谷干城の銅像前で撮った記念写真。若かりし頃のカミさんと私(汗)。
観光写真の仕事でもこの位置で撮影していたし、天守最上階の唐破風が見えることな
ど、結構お気に入りの撮影ポイントだった。
今はこの地に本丸御殿が復元されている。
 
なお復元に伴い、谷干城の銅像は別の場所に移されている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 なお、熊本城の公式ホームページもありますので、興味のある方は
            こちらからどうぞ!!

 
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