鞠智城編


   鞠智城(きくちじょう・くくちじょう)とは?

  古代、天智天皇(正確には中大兄皇子時代)の時代に、日本は朝鮮半島に大規模な軍事介入を起こし
 ます。これは、当時三国(高句麗、新羅、百済)分立時代だった朝鮮半島で、新羅が唐と結び百済を滅ぼ
 した事に脅威を感じた天智天皇が百済の再興を願って、大軍を半島に派遣したということです。
  しかし白村江(はくすきのえ)で待ち受けていた唐・新羅連合軍に日本軍は大敗北を喫し(663年)、この
 後天智天皇は唐・新羅連合軍の日本侵攻を危惧し、西日本の各地に国土防衛上の施設を造らせます。
  対馬の金田城、筑紫の大野城や基肄城、水城等の施設がそうですが、鞠智城もその一つとして築城さ
 れたと考えられています。ただ、有事の際最前線基地となる金田城、大野城、基肄城等と違って、鞠智城
 はこれらの城よりずいぶん内陸部に造られており、後方支援(武器・食糧を前線に供給し兵士を送る兵站
 基地)を主たる任務としていたと考えられています。
  尚、呼称については、古来「鞠智(く・く・ち)」であったのが平安時代に「菊池(き・く・ち)」になり、現在で
 は「鞠智城」で「きくちじょう」とも「くくちじょう」とも呼ばれているようです。


   鞠智城の概要

  鞠智城は熊本県唯一の古代山城で、「続日本紀」の文武天皇2年(698)5月の条に初めて城名が見え、
 最後は「日本三代実録」の元慶3年(879)の条まで、城に関する記載がある。
  鞠智城跡の城域面積は、中央部の内城地区だけで55haの広さがあり、菊鹿町米原の集落、農地、山林、
 丘陵を取り込み、一部は菊池市の堀切地区まで拡大している。
  昭和42年からの発掘調査は、平成11年度で21次を数えるが、調査の積み重ねによって遺跡の全容が
 明らかになりつつある。八角形建物跡、貯水池跡、貯木場跡が検出され、木簡も出土した。 これらはわが
 国の古代山城として初めての発見である。
  これまでに見つかった建物跡は総数67棟を数える。建物の性格は、鼓楼(八角形建物)、米倉、武器庫、
 兵舎、管理棟的建物が考えられる。 鞠智城は大宰府の後背地に造られた兵站基地と位置付けられてお
 り、大野城や基肄城に食料や武器を補給し、支援の兵士を送り込む役割を担っていたものと思われる。
 日本史ばかりでなく、東アジア史を考える上でも重要な遺跡である。

                               熊本日日新聞社刊「グラフよみがえる鞠智城」より抜粋


   鞠智城の位置、その他の古代山城の分布 

     

   防人について 

  「防人」とは元来「崎守」の事で、主に大陸に面する北部九州の崎々に配属されて国土の防衛にあたりま
 した。 防人が正式に制度化されたのは白村江の敗戦後のことで、当初は西国の兵士が主体となる予定
 でしたが、百済救援などの戦闘に参加した疲労が激しく、任務に耐えなかった為に全国各地から徴兵され
 る事になりました。
  徴兵された兵士は自前で武器・武具などの装備を整え、難波津(大阪)に集まって船で瀬戸内海を下り、
 大宰府を目指しました。九州に入ってからは、各地に配属されて軍務のほか、食料の自給自足制度の為、
 空き地の開墾作業にも従事しました。兵役は3年間で老父母の面倒を見ているものは免除されたというこ
 の制度は730年に廃止されるまで続きました。

 


  鞠智城最盛期復元図

この図のうち、八角形建物(鼓楼)と米倉、兵舎については復元されています。


   鼓 楼

復元された八角形建物(鼓楼)
このような八角形建物は全国の古代山城では初めての発見。
この建物は高さ15.8mの3層構造で連絡用の太鼓を置いていたと考えられている。


   米 倉

米倉
高床式で校倉造が特徴。
高床式の為、風通しが良く、兵糧米にとっては最高の環境だったと思われる。
計算では1棟で1200俵が保存できる。

瓦は色も再現した復元瓦。(鼓楼の瓦も同じ。)


    兵 舎

兵舎
板葺き屋根、土壁、土間造りが特徴。窓は突き上げ式で棒で支えていた。
復元されてからは、各種の出土品の仮展示場として使用されている。

参考文献:グラフよみがえる鞠智城(熊本日日新聞社刊)


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