親父のアルバム

 
   私の父は戦後の混乱期、食べる物にも事欠く生活の中で炭鉱には特別配給があるの
 を知り、当時勤めていた国鉄を退社、山口県下関市から荒尾へ移り、三池炭鉱で働くよう
 になりました。
   しかし生来の持病(腎臓炎とそれから来たのであろう高血圧)の為、2年ほどの坑内勤
 務の後は、坑外で事務畑の仕事をやっていました(坑内運搬工〜人事係〜検収係〜三
 池新労)。
 
   昭和53年、組合執行委員の職を最後に定年退職した父は、その後、胃がん、肺がん
 など大病を患いながらもこれらを克服、持病の腎炎の悪化にも人工透析という手段で生
 き長らえ、唯一の趣味の俳句、短歌などの文芸を楽しみながら余生を送りました。
   そんな父も3度目のがんの襲来には勝てず、平成4年11月肺がん骨転移にて69年の
 生涯を閉じました。
 
   このページではそんな父の残したアルバムの中から炭鉱時代のものを数点紹介した
 いと思います。 中には見づらい写真もありますが、なにぶん古いものなのでどうぞご容
 赦ください。
 
 

 検収係時代の親父。
(検収係は坑内で働く人達の
作業量をチェックする仕事で、
そのデータは給与計算の基礎
となる。坑内特務工。)

 ヘルメット(?)とキャップランプ、
地下足袋に時代を感じる。

昭和30年前後、
四山鉱柵内と思われる。

 四山鉱立坑前で。
向かって右が私の親父。
検収係時代と思われる。

三池争議篭城中。
四山鉱柵内にて、炊事班として飯を炊く親父。

四山鉱柵内。
争議終結後であろうか?

四山鉱の運動会。
昔はこういう楽しい行事が沢山あり、大勢の参加者、見物人で賑わっていた。
四山社宅内グラウンド、左に立坑が見える。

三池新労本部前。
昭和44年から定年までここが親父の職場となった。
(親父は最後列向かって右から3人目。)
このビルは新労結成思い出の地、延命公園の前にあったが
閉山後の新労解散に伴い解体撤去されている。


   若い頃から病弱だった父は、文芸が好きで特に四山鉱で出会った方から俳句を教わ
 り熱中していきます。 そんな父が1冊の本を遺しました。亡くなる4ヶ月前にやっと上梓出
 来た親父の自叙伝風句集です。
   この中に三池新労結成3周年にあたり、機関紙に投稿・掲載された小文が再掲載され
 ているのですが、それをここで紹介したいと思います。
 
   興味のある方は下の「我楽苦多」という文字をクリックしてください。

  

我楽苦多

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