荒尾の名所・観光スポット

 荒尾の名所旧跡

 荒尾市の東にそびえる小岱山。標高501.4m。
主峰筒ヶ岳には、小代氏が1271年に築いたといわれる筒ヶ嶽城跡がある。
この城は、加藤清正に転封を命じられ、1593年に廃城となるまでおよそ320年間 
小代氏の本城だった。 また観音岳の中腹には、東洋一の大梵鐘で有名な
蓮華院誕生寺奥の院がある。(寺域は玉名市)
 
〜小岱山については「よかトコですバイ・小岱山ハイキング編」もご覧下さい。〜
 
小岱山は日本に3ヶ所しかないトキワマンサクの自生地です。
2007年4月14日、満開の花を見に行ったときの模様をこちらからどうぞ!
 
荒尾市の西側に広がる有明海。
この海は日本一干満の差が激しい事で知られ、干潮時には何キロも沖まで干潟が続く。
広大な干潟には、むつごろうを始め、カニやマジャク等、磯の小動物達が沢山現れていたが、
昨今の諫早干拓を含む有明海の変質で、今は…
上の写真で遠くに霞むのは雲仙の山々。
 
市屋の西側に当る、旧第1荒尾海水浴場。
海水の汚染によって、泳げなくなってどれくらい経っただろうか。
遠方に見える小高い丘は四山で、この上には灯台と四山神社がある(写真下)。
 
南荒尾駅近くの旧第2荒尾海水浴場。
今ではここも泳げないが、私が子供の頃は海の家が建って、にぎわっていた。
 
 岩本橋。(県指定重要文化財)
阿蘇凝灰岩の切石を二重に築いた長さ32メートル、幅4メートルの眼鏡橋。
欄干に菊の文様が彫り込んであるところから、皇居の二重橋を始め数々の名橋を
建造した、八代の名匠橋本勘五郎作と伝えられる。

 
 
 宮崎兄弟の生家。(県指定史跡)
宮崎八郎、民蔵、弥蔵、寅蔵(滔天)の4兄弟が生まれた家。
中国革命の父 孫文は、清国の悪政から人民を解放するために奔走中、滔天に
かくまわれて、この家で数日を過ごしたという。 現在、市によって整備保存されている。
写真右は、孫文がこの家に滞在していた時の様子を復元したもの。
孫文(右側)と滔天が筆談で話し合っているところ。

 
 
 三の宮古墳と武装石人。(石人は県指定重要文化財)
市内唯一の前方後円墳。全長47メートルで後円部の径は23メートル。6世紀初めの
築造と思われ、石室には装飾が施されていた。現在、石室壁材と石人が保存されている。

写真左 彩色の跡が残る石室壁材。
写真右 兜をかぶり短甲をつけ、朱色の彩色が施された武装石人。

 
 
別当塚古墳群。
別当塚東・西両墳、亀原古墳の三基の円墳で構成される。
なかでも東墳は直径約36m高さ5mで、主体部に小口積みの竪穴系横口式石室を持つ5世紀前半の
古墳で、竪穴式石室から横穴式石室への変遷などの研究の資料として、重要視されている。

 
賀庭寺(がていじ)跡。
賀庭寺は保元年間(1156〜58)に平重盛の祈願寺として創建されたと伝えられ、一時は広大な
寺域に七堂伽藍を備え、薬師如来が安置されて各地から集まった学僧や修験者が44もの坊舎で
学んだと伝えられている。この寺は、たびたび火災に遭い、衰退していたものを元禄時代に再興さ
れたが、明治維新後の廃仏毀釈によって廃寺となり現在に至っている。
場所は野原と府本の中間地点、八幡台団地の東側。
 

賀庭寺古塔群。(県指定重要文化財)
賀庭寺内の古塔群は、元々寺跡にあったものに加えて周辺の山野や集落から収集されたもので、
五輪塔118基、宝塔41基、板碑3基、碑伝型板碑1基が現存している。

 
 
賀庭寺の案内碑文。
 

 
県境商店街。
上の写真は荒尾側から大牟田側を、下の写真は大牟田側から荒尾側を見たもの。
福岡シティ銀行の看板の右に県境の標識がある。
 
この路地が県境。
この路地の左側が福岡県大牟田市、右側が熊本県荒尾市。
こういう県境は全国的に見ても珍しいのではないかと思う。
ここ以外でも住宅地の中に県境があったり、
大牟田市の中に荒尾市の飛び地があったりする。
 
荒尾の玄関JR鹿児島本線荒尾駅。
57000の人口を抱える市の代表駅としては小さ過ぎると思うが、
これも隣に大牟田駅があるせいか…特急も数本しか止まらない。
最近東口の設置及び周辺整備の話が持ち上がっている。
東口が出来ると国道208号に直結した駅となり、使い勝手も格段に向上するとは思うが、
特急停車数が増えない以上、遠方に行く時はどうしても大牟田駅を使ってしまうので、
現在の近距離通勤通学客が主体というスタイルは変わらないと思う。
 
駅前に続く荒尾の繁華街。
最近では緑ヶ丘地区の開発が進み、荒尾の中心を奪われた格好だが、
やはり荒尾の玄関口、まだまだ頑張っている。
 
 


  荒尾出身の著名人

宮崎家の
人々
長蔵
(政賢・父)
天性の自由を愛し名利を憎み、村人から愛されたという。
佐喜(母) 子供たちに「畳の上で死するは男子何よりの恥辱」と教えたという。
八郎(二男) 肥後藩校時習館の秀才で、藩命で東京遊学中に、中江兆民訳のル
ソー「民約論」に感化、自由民権論者となる。帰熊後、植木学校を創
設、自由民権思想を説くが、余りに過激過ぎたため、僅か半年で、
県により、廃校させられる。明治10年、西南の役が起こると「西郷隆
盛に天下を取らせて、(西郷の政治が悪ければ)また謀反する。」と熊
本協同隊を組織し、薩軍に参加。しかし、戦い激化の中、同年4月6日
八代萩原堤で無念の戦死を遂げる。享年27歳。(1851〜1877)
民蔵(六男) 凶作や重税にあえぐ農村の貧しさを見て、土地制度に疑問を抱き、
地権回復運動を生涯の使命とする。明治30年には欧米へ渡り、各
地で土地問題について意見交換を行う。帰国後明治35年、東京で
土地復権同志会を結成、遊説に努めた。(1865〜1928)
弥蔵(七男) 西欧列強からのアジア諸国開放論を唱え、中国(当時清国)を本拠
地とした革命によって万民平等の理想の国家を築くことを願い活動
するが、明治29年志半ばにして30歳で病没。(1867〜1896)
寅蔵
(滔天・八男)
3人の兄たちの自由民権思想を受け継ぎ、なかでも弥蔵のアジア諸
国開放論に共感した滔天は上海に渡り、孫文の中国革命運動に尽
力。帰国後は、浪曲で国民に中国革命の重要性を説いたりもした。
明治38年孫文と黄興の手を握らせることに成功し、日本の全権委員
として革命を援助しつづけた。
県近代文化功労者。(1871〜1922)
海達公子(かいたつきみこ)
  詩集
少女詩人。童謡作詞家の父の影響で小学2年生の頃から雑誌「赤い
鳥」などに児童自由詩を発表。北原白秋らの絶賛を浴びて全国的に
注目される。また、興田準一、野口雨情、若山牧水らからも励ましを
受け、次々に素晴らしい作品を発表したが、惜しくも18歳で病没。
母校の荒尾第二小に詩碑と彫像が建てられている。(1916〜1933)
余田弦彦(よでんつるひこ) 荒尾町長(当時)余田末人の次男。旧制高知高校の一期生。在学中
はバンカラで通し、「ひげさん」の愛称で高知市民にも親しまれた名物
男。雄弁家で弁論部では主将を務め、また、詩歌を愛し高知高校寮
歌「豪気節」や、「酋長の娘」の作詞作曲者でもある。短歌や俳句にも
優れた作品が多いが、京都帝大在学中25歳で病没した。現在高知市
桂浜に「豪気節碑」が建てられている。(1902〜1927)

使用している写真は全て、オリジナルです。                          
解説文については、市制50周年記念誌、各種パンフレットを参考にしました。 
      

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