私の家は昭和53年に父がマイホームを建てて引っ越すまで、弥生町に住んでいま した。 私は、その前から熊本市内で一人暮らしをしていたのですが、昭和57年に勤 めていた観光写真の会社が倒産した為、 思いきって炭鉱マンになる事に決め、同年 4月四山鉱に入社。 その年の9月に所帯を持ったので大牟田市の小浜社宅に入居 しました。 小浜社宅には、北、南社宅(2階建て)と職員社宅(平屋風呂付)があり、私は仲人さ んのお骨折りもあって、職員社宅に入ることが出来ました。 この社宅は6畳、4.5畳、 3畳の3間に台所、風呂、トイレ(水洗)という間取りでした。 風呂は入居した当時石炭風呂で、 各戸ごとに配給の石炭を置いておくスペースが ありましたが、数年後ガス風呂に切り替わり、石炭置き場も取り壊されました。 この小浜社宅には、平成元年に炭鉱を退職した後も約5年間ほど住み続け、結婚し てから約12年の間住んでいまして、そのなかで 子供が生まれ、育ってと一番想い出 深い社宅になりました。 |
昭和58年の正月。 小浜社宅63棟の玄関前で 玄関のドアがベニヤ板製。 (それにしても 若いって素晴らしいねぇ〜) |
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昭和61年の玄関付近。 この頃は窓がサッシになって、 玄関のドアもアルミサッシ製に 変わった。 |
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小浜社宅街。 向こうに見える建物は、 大牟田市母子寮。 |
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現在の小浜社宅跡。 白っぽく見えるところが道路の跡。 母子寮の位置など上の写真と見比べてください。 |
このように今は社宅街も取り壊され、ただの空き地になっています。 ここに長い間住み想い出をたくさん残している者にとって、その風景が無くなってしまうという 事は大変残念なことです。 しかし、大牟田、荒尾にはあちこちに社宅跡があり、跡地の有効利用を考えるのも地域活 性化のためには重要なことだと思います。 まだまだ失業者が多いこの周辺、雇用力の大き い企業の誘致など、跡地の有効利用に行政当局はもっと力を入れて欲しいものです。 |